2021.03.11
高円寺純情小説プロジェクト「梅雨の子」(ねじめ正一)

短編小説と対談で語る、高円寺の今と昔

発行/高円寺銀座商店会協同組合(高円寺純情商店街)

作家・ねじめ正一さんが直木賞を受賞した小説「高円寺純情商店街」は高円寺銀座商店会協同組合の通称の由来となりました。

今回、小説「高円寺純情商店街」の少し前にあたる少年時代を思い出して新たな短編小説を書き下ろしていただき、対談や年表とともに一冊の冊子とこちらの特設ページにまとめました。
高円寺純情商店街の歴史とともに、昭和30年代の高円寺の空気や文化を感じてみてください。

「梅雨の子」発刊記念 無料配布イベント

冊子「梅雨の子」発刊を記念し、高円寺純情商店街へお越しの方へ下記日時にて無料配布いたします。
※なくなり次第終了です。

2021年3月27日(土)15:00~17:00(予定)
山形県飯豊町アンテナショップ IIDE前

目次

梅雨の子
短編小説
文・ねじめ正一
絵・ 小巻綾香
高円寺今昔がたり
ねじめ正一×吉田善博
聞き手・ 西牟田 靖
高円寺純情商店街
こんなに変わった!高円寺純情商店街
年表
YouTube動画 高円寺純情商店街を歩く

梅雨の子

商談に一間とられし梅雨の子よ

正一の父がこの句を作ったのは昭和32年、年齢は39歳、正しく父の男盛りの時であった。梅雨の子の私は9才である。

終戦後、外地から引き揚げてきた父に、焼け野原の東京で仕事がなかった。

船乗りをしながら俳句を読んでいた父は親戚の伝手を頼って、やっと開いたのが、乾物屋である。

だから、父は、乾物屋という商売に愛着を持っていない。その上に、戦後十数年経ち、俳句を読んでいるという自負があっても、金はまったくなかった。

結婚して子供もいるのに、一間きりの家で、しかも親せきからの借り店だということに、 男としての不甲斐なさを感じている。

その店の奥には、かつお節削りの機械が置いてあって、父は毎朝、その日売る鰹節だけは義務のように削るが、それ以外の仕事はほとんどしなかった。

かつを削り機の脇が、部屋に上がる通路になっている。

親子3人が暮らす部屋は、6畳の一間だけで、部屋に入る上がり框は、子供の私には高くて、一跨ぎではあがれない。

ガラスの入った引き戸も、立て付けが悪くて、さらりと開けられないので、冬の寒い時以外はほとんど開け放しであった。

部屋に入ると、正面には母の鏡台、 その鏡台の上の長押のところには、一間半の長い一枚のラワン材の棚板が渡してあり、棚板の上には父や母の靴や、帽子が入っている箱などが乗っていた。箱の横には父の本もたくさん並んでいた。

猫の額ほどの中庭から西日が当たり、畳は日焼けしていた。部屋左側の壁に沿ってミシン、タンス、ミカン箱が並び、そのミカン箱は私の勉強机兼本箱で 、部屋の真ん中にはちゃぶ台が置かれていた。

部屋の中で少しばかり華やいで見えるのは、赤い鹿の子柄の縮緬の鏡台掛けと、エンジ色のゴブラン織りのミシン・カバーだけであった。

6畳間の先には廊下とは言えないほどの短い板敷があり、突当りが便所、右側が台所で、なぜか知らないけれど、そんな狭い板敷の左壁に、キャンバスだけの油絵が4~5枚立て掛けてあった。

便所に行くたびに、私は足を引っ掛けて倒さないように、注意を払わなければならない。

そんな一間しかない家だから、店ではできない込み入った商談なども、この6畳間でするしかない。

乾物の卸問屋の人が来て、父と梅雨の時期の対処法などを相談している。

雨で外に遊びに行けない私は背中を丸めて、父と卸問屋の人の話が終わるのを一間の片隅でじっと待つしかなかった。

早く終われ、早く帰れと、心の中で呪文を唱えるが、なかなか終わりそうにもない。

それよりも何よりも、私の気分が晴れないのは、逆さまつ毛がチクチクと目の玉を突っついてくることだ。

1本や2本ではなく、まつ毛全部がチクチク突っついてくる感じがするのだ。

雨が降っていてこんなに湿気ているのだから、逆さまつげも萎れていそうなのに、いつもよりも攻められている。

正一の逆さまつ毛は、母からの遺伝だ。逆さまつ毛があると目やにもよく出る。一か月ほど前、目やにが鬱陶しく汚い手でこすっていたら結膜炎になってしまった。

近所の平沢眼科の先生に、
「お母さんに似ちゃったんだから仕方がない。逆さまつ毛はしょっちゅう抜かないとだめだよ」と言われたが、眼科に行くのが怖い。

先生は頭に被っている天眼鏡の光を私の目に当てて、手際よく毛抜きで抜いて言ってくれたのだが、おしっこをちびりそうになるくらい痛かった。 痛みに刺激されて鼻水もだらだら出てきた。

でも、先生は私の鼻水なんかにはお構いなしで、次々と逆さまつ毛を抜いていく。私が痛みと鼻水で頭がぼうっとしている目の前に、白い紙の上に置いた20本ほどのまつ毛を見せて、
「こんなに沢山逆さまつ毛があったら、目を傷つけて結膜炎にもなるよ」と言う。

逆さまつ毛のチクチクと、逆さまつ毛を抜く痛さとを比べたら、やっぱり抜く方が痛いから、私は抜くのを嫌だと思ったが、結膜炎だけは治しておかないといけない。梅雨が明ければ、プールが始まるからだ。

その時に平沢眼科でもらった残りの目薬をポケットから出して、顔を仰向けて目に垂らす。目薬が上手に入らず、頬を伝って口に入り苦い味がする。

結膜炎の薬が逆さまつ毛に効くわけがないのだが、それでも正一にはチクチクが治まるような気がした。

父と卸問屋の人は商売の話をとっくに終わって、プロ野球の話になっている。

父は巨人軍ファン、卸問屋の人は阪神ファン。卸問屋の人の方が父よりも声が大きくて父は負けていた。

卸問屋の人はまだ野球の話がしたい様子であったが、他のお得意先も回らなければいけなくて、慌てて帰っていった。

父は大きくため息をつくと、今敷いていた薄っぺらい座布団を二つに折って、枕代わりにして横になった。

「お母さんと店番代わったげればいいのに」と思ったが、口に出しては言えない。グローブを左手にはめて、ボールをグローブの土手に当てながら、ああぁー外で野球がしたいなと思っても、雨はじめじめと降り続いている。

突然父が、
「正一、足の指、掻いてくれ」と言いながら正一の方にずーんと左足を伸ばしてくる。ああぁーまたかと思うが、口には出せない。父の左足の靴下を脱がせ、父の重い左足をつかまえて、父の足の薬指を私の右手の親指と人差し指の腹で掻きはじめる。

「掻く」というよりは「しごく」感じだ。

父の左足の薬指は一年中痒いらしい。

だから、父の足の薬指を、年がら年中掻かされ続けてきた。どうして、父の薬指がこんなに痒いのか不思議でしょうがなくて、父に「何でかゆいの」と、聞いたことがあったが、「しもやけをこじらせたんだ」と言う。

小さい頃に薬指にしもやけができて、そのしもやけの薬指を掻きすぎて、痒い薬指になってしまったと言うのだ。

家の薬指を掻き続けていると、 だんだん薬指が赤くなって、もろもろと薄い皮が剥けてきた。なのに父は平気で、
「正一、爪を立てて強く掻いてみてくれ」と言う。私は言われた通り、恐る恐る爪を立てて掻いてみる。

「感じないなあ。 もっと強く掻いてみてくれ」

正一は思いっきり力を入れて爪を立てて掻いてみる。

「だめだな。梅雨のせいかなぁ。今日の薬指は鈍くて全然気持ちよくないなあ。」

こんなに一生懸命掻いてあげているのに、気持ちよくないなんて、それなら、自分で掻けばいいじゃないかと言いたかったが、言えなかった。

「正一、輪ゴムを薬指に強く巻いてみてくれるのか」

「え!お父さん、そんなことしたら血が止まっちゃうよ!」

「大丈夫だから、輪ゴムを取って来い」

私は台所にいって、 水道の蛇口の横に掛けてある輪ゴムを2~3本取って、持ってきて、父の薬指に巻き始める。

「もっと強く巻いてくれ」
と言うので輪ゴムを一回ほどいてから、持ってきた輪ゴム全部で薬指が捻じ切れそうなほど、輪ゴムをぐるぐると強く巻いた。

「正一、その楊枝の先で刺してみてくれ」

父はますます私が怖くなるようなことを言ってくる。父の薬指の先が赤黒くなってきた。

今日の父の薬指は変だ。

「そんなことしたら、血が出てくるよ」

「血が出ても、それは悪い血だから出した方がいいんだ」

「本当に知らないからね」

私は悪い血でもいい血でも、どっちの血も絶対に見たくなかったが、父に言い返せなかった。渋々茶だんすから楊枝を出して、用心深く父の赤黒くなった薬指を、楊枝の先でちょいちょいと刺してみたが、父は痒みが治まらず、どうやっても気持ちよくないという。とうとう父は体を起こして、自分で輪ゴムを解きはじめた。私は、父がやっとあきらめて、「正一、もういいぞ」と言ってくれると思っていたら、台所からマッチを持って来いというのだった。

「マッチでなにするの?」

「いいから早く持って来い」

私は、普段から母にマッチを触ってはいけないと言われているので、不安で頭がいっぱいになった。

父の薬指も変だが、今日の父の頭も変だ。

台所からマッチ箱ごと持ってきて、父に渡すと、マッチを擦って火を薬指に近づけたから正一は半べそになって、
「そんなことしたら、火傷するよ」と言うと、

「それが火傷しないから不思議なんだ」

「お父さん、やったことがあるの」

「ちょっと前に」

「熱くなかったの」

「それが熱くなかったんだ。かゆみが消えたんだよ」

ところが、今日は何本マッチの火を近づけてもかゆみは治まらないらしく、父がイライラし始めたのが分かった。灰皿の中は、湿気で火の付かなかったマッチ棒と黒く焼けたマッチ棒とでいっぱいになっている。

どんなひどい事をしても、かゆみは治らないのだから、ゴロゴロ寝ないで店に出て働けば、痒みも忘れるだろうにと思うのだが、口に出して言えない。

父は店番が大嫌いで、店のことは母に任せきりである。父はちっとも働かないで、部屋でごろごろして俳句ばかり書いているのに、母は何でお父さんに文句を言わないのか、私には不思議だった。

「正一!」

イライラし始めている父が、今度は何を言うのかと私がちゃぶ台の前に座って身構えていると、
「薬指って大切な指なんだぞ。神経とつながっていて、薬指の調子が良くないと、首の神経にも影響があるんだ。よく覚えておけ」

父のこの薬指の話はもう何十回も聞いているので私はちょっと拍子抜けして、こくりと頷いた。

父は、私がこくりと頷いたのを見届けると、また座布団を二つ折りにして頭を乗せて、ごろりと横になった。それから、さっきしたように、ちゃぶ台をよけて、私の方へ左足を伸ばしてきた。

「メンソレタムを塗って、掻いてみてくれるか」

何をしてもかゆみが治らない時は、いつも最後はメンソレタムに行きつくのだ。

私はまだ掻かされるのかと、不貞腐れたくたたくなるのだが、父のイライラを見ることのほうが嫌で、おとなしく父の言うとおりに従った。

母の鏡台の引き出しに入っているメンソレタムを取り出して、父の左足の薬指に塗り、親指と人差し指で父の薬指を挟み、揉みしごくように掻いてあげた。

メンソレタムの薄荷のいい匂いがしてくる。逆さまつ毛のチクチクも、穏やかになるようだった。

父は、輪ゴムを巻いても楊枝で突いても、マッチの火を近づけても駄目だったかゆみが、メンソレタムでやっと治り始めたらしく、うとうとしている。

こんなんだったら、最初からメンソレタムを塗って、自分で掻けばいいのにと思いながら、私は父の薬指を掻き続けた。

父の変な薬指は、子供の私にはしもやけをこじらせたと言っていたが、戦争中凍傷にかかった指だったらしい。

凍傷していれば、痛みも熱さもかゆみも何も感じないはずなのだが、かゆみの神経だけは残っている変な指なのだ。

父の変な足の薬指が、私の高円寺純情商店街のはじまりだ。

文 :ねじめ正一(ねじめ しょういち)

詩人、作家、元・ねじめ民芸店店主。

  • 「ふ」H氏賞受賞。
  • 「高円寺純情商店街」直木賞受賞。
  • 詩のボクシング初代チャンピオン。
  • 「荒地の恋」中央公論文芸賞受賞。
  • 「商人」舟橋聖一賞受賞。
  • 「まいごのことり」ひろすけ童話賞受賞。

著書「長嶋少年」「むーさんの自転車」「ナックルな三人」「認知の母にキッスされ」 ほか。

高円寺今昔がたり

ミュージシャンに芸人、そして物書き。ユニークな人たちを集め続ける街、高円寺。なぜ若者は高円寺を目指すのか。高円寺北口商店街(現・高円寺純情商店街)で育った、ねじめ正一さん(作家、昭和23年生まれ)、と吉田善博さん(商店街専務理事、昭和39年生まれ)がその理由を語りあった。

ねじめさんの原体験

高円寺といえばサブカル文化ですが、当時からユニークな人たちは集まっていたんですか?

ねじめ:いたよね。昔、高円寺駅の上に高円寺会館があって、林家三平が来たり、白井義男のシャドーボクシングとかをやったりしていた。芸人さんもずいぶん来ていましたよ。私の家の乾物屋の近くに漫才師もいました。空き地で大きな石を子供達に探させて、その石を割ったりする人もいました。ヘンであるということが悪いと思われる時代ではなかったんだ。

実際、ねじめさんの小説にはユニークな人たちが登場しますよね。

ねじめ:そうなの。私が子どもだった頃からヘンな大人が周りにいたよ。例えば「チビカン」がそう。全然働いてなくて、大人から見ると、よく分からない人なんだけど、子どもからすると、ものすごくいい人だった。

どういうふうにヘンなんですか。

ねじめ:当時、昭和30年代で、高円寺の少年達には有名でした。お金もないのに野球をしている子どもたちを集めて野球チームを作っていた。本人は全く野球は下手なんだけど、子どもたちが夢だったんですね。子どもにはすごく気を使って、子どもが風邪を引いたりケガをしたりすると、一軒一軒みんな回っていくんだよ。私が冬、練習していて扁桃腺を腫らしたときもそうだった。チビカンが私の家の乾物屋に見舞いに来てくれて、正座して「正ちゃん悪かったね」って。

すごく魅力的なヘンな人というのは他にも?

ねじめ:久乃家という和菓子屋(甘味喫茶)に「うーさん」という人がいてね。彼も子どもたちにとっては魅力的だったね。ボクシングをやっていてケンカが強くてジャズが好き。それに自転車がヘン。闇込米も売っていたから。米屋独特の自転車でね、タイヤがデカいの。自分で改良した自転車に乗っていた。

闇米という響きが時代を感じさせますね。

ねじめ:親父の友人だった高橋鏡太郎という俳人もヘンだったね。親父は最初こそすごく尊敬していたんですけど、彼はアルコール依存症だってことで、だんだん父は鏡太郎さんを遠ざけるようになっちゃった。一日に何度も父を誘いに来るんですが、父は逃げていました。父に頼まれて「お父さんはいない」って鏡太郎さんに伝えたら、しょんぼりしながら帰っていったね。依存症だからね、昼間も酔っぱらってて。私が公園で野球をやっていたら裸足で乱入してきて、めちゃめちゃになっちゃうの。

それはイヤですね。

ねじめ:でも、そういったヘンは大人って子どもにとって魅力的なんだよ。そうしたヘンな人のパワーってのが、今思えば、私のものを書くときの大きな力になっているね。

吉田: 大人からするとヘンな人だけど、子どもからすると「なんだろう」という感じの人、私も覚えています。

ねじめ:あとはね、ヘンというのとは違うかもしれないけど、広島カープの興津立雄(昭和34年入団-昭和46年引退)は私にとってはかっこよかった。興津さんは引退後、高円寺で水道工事屋さんになって真夏に道で土を掘っているんです。「わー、すげーなあ」って。その頃まだ若かったから興津さんもすごい体をしていたね。興津さんのことは私がもう大人の頃でしたが、興津さんの現役時代のバッティングは凄かったです。興津さんは腰を痛めていたので、春先は良かったのですが。腰が悪くなかったら素晴らしい成績を残したに違いありません。

ユニークな人たちを受け入れ続ける街

今の高円寺の人たちと共通点はあるんですか?

ねじめ:又吉直樹さんが高円寺にいましたよね。みうらじゅんさんとか水道橋博士とかには共通したものを感じるんだよね。
高円寺を通過していったり、今でも暮らしている人もいますが、みんな捨て身な感じがします。好きなことだけやっていればそれでいいみたいな。

ユニークな人達が集まり続けるのはなぜなんでしょうか?

ねじめ:町として出入り自由なんですよ。浅草みたいな地元に煩い年寄りもいないし、干渉しないし、高円寺を出て行くときも挨拶もなく気軽に出ていける。よそ者と地元の人が上手に交流できるんですよ。生きやすいんです。
熊谷真美と松田美由紀のお母さんの清子さんがやっている店が私の店の近くにあったんです。駅前で路上ミュージシャンが唄っていたら、雨が降ってきて可愛そうになって「うちの店の入り口でやりなさいよ」言って、声かけて歌わせたりしていたね。そんな彼らをいつでも迎えてあげるというのが高円寺の大人たちなんだよね。

吉田:そうやってね、若い人を応援しようという伝統は今でもありますね。「倉持惣菜店」のおばちゃんがそう。売れないミュージシャンが、コロッケ一個の安い弁当を注文すると、メンチカツやアジフライをサービスしたり、路上で演奏中の彼らに売れ残ったコロッケを差し入れしたりしていますからね。そんな彼らが成功して高円寺を離れていっても礼を言いに戻ってくるんですよね。


資料提供:東京高円寺阿波おどり

阿波おどりはばか踊り

売れないミュージシャンとかを温かく受け入れようという器みたいなものがあったんですね。

ねじめ:それがやがて阿波おどりにも繋がって行ったりした気がするね。阿波おどりは今でこそメジャーなのかもしれないけど僕らが子供の頃なんてめちゃめちゃな踊りだなと思って見てました。そんな踊りを受け継ぐというのも高円寺らしいというか。ヘンな話だよね。

高円寺の阿波おどりは確か昭和32年ぐらいから始まったんじゃなかったでしたっけ。

吉田:最初は阿波おどりという名前ではなくて「ばか踊り」という名前でした。男連中が白粉を塗りたくって女装して馬鹿みたいに踊っていたそうです。

ねじめ:人数が足らないから誰が踊ってもオッケーだったんだよ。暗黒舞踏の連中も踊っていたね。最初は南口の人しか踊っていなかったけど。

吉田:そうらしいですね。当時は南口だけでやってたそうですね。北口でも踊るようになったのは、昭和42年に線路が高架になった後のことだと聞いています。

ねじめ:そう、その頃だったね。私が19歳ぐらいの時に北口でも踊るようになったよ。

今や高円寺の象徴ともいえる阿波おどりですが、元祖である徳島との違いは?

ねじめ:お客さんとの距離が近いよね。だからすごく身近。高円寺の道幅はあまり広くないし、ちょこちょこっと路地がある。それに坂道も少ない。

吉田:高円寺は早稲田通りから新高円寺まで行こうとすると、庚申通りや駅前を通って、PAL商店街のアーケードを抜けて、ルック商店街の途中まで信号がないんです。そういった事情から商店街が分断されないのかもしれませんね。

ねじめ:だから人と人との距離が近いし、エネルギーが溜まりやすいのかもしれませんね。それって今でいう「密」なんだけどね。(笑)

やりすぎの系譜

阿波おどりがずっと続いていたりするのもそうなんですが、ヘンな人の系譜と言いますか、そういったものが、時代を超えて受け継がれていますね。

ねじめ:なんだかね。やりすぎなんだよね。やりすぎちゃう。この辺でやめとけばいいのに、その先もやっちゃうの。やりすぎちゃって世の中的には損な方に回っちゃうんだよね。世の中に役立つというよりも、世の中のあまり役に立たない方に行っちゃう。そこを過ぎちゃうと。だからね水道橋博士も見ているとね、やりすぎなんだよ彼は。

(一同爆笑)

水道橋博士のメルマがの「メルマ旬報」、ボリュームありすぎですよね。

ねじめ:やりすぎているところがいいの。あれも高円寺という感じがするの。それは相方の玉袋筋太郎さんもそうだし。やりすぎてなんだか損な役回りっていう感じがするな。でもそれでいいと思うんだよな。私もその部類だと思っているし。

なるほど!

ねじめ:手加減がよくわからないのね。ここまでやればいいとかわからず延々とやっているんですよ。変わってるとか自分では思ってないのよ。自分が納得するまでやりたいということなんですよね。だから終わらないんですよ。

この対談もなかなか終わりが見えないですよね。それをオチとしましょうか。

とことん物事を突き詰めてしまうユニークな人たち。世の中においては異端視される彼らを高円寺の商店街の人達は温かく迎え続けている。それこそが、高円寺にユニークな人たちが集う理由なのだ。

写真:ねじめ正一著書
「高円寺純情商店街」「高円寺純情商店街-本日開店」(新潮社)

こんなに変わった!高円寺純情商店街

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左:1959年(昭和34年)/右:2021年(令和3年)

さわやこおふぃ

日本橋で卸問屋をしていた「さわやこおふぃ」が高円寺に移転したのは昭和31年。

大一市場

かつては乾物店などが入っていた大一市場。今は人気飲食店が入り、東南アジアのような雰囲気も。

ツバメヤ眼鏡店

現・三菱UFJ銀行よりもさらに駅寄りに位置していたツバメヤ眼鏡店は商店街の突き当たり、林画材の並びに移転した。

その他にも林画材店チヨダ靴店ミカド薬局ツル薬局東京屋(東京洋酒)などの名前が見られる昭和34年の高円寺北口商店会。映画館や銭湯も見られ、物販店も多く、非常に活気ある商店街であったことが伺える。

現在は他の商店街同様に個人の専門店は減り、居酒屋などの飲食店がメインストリートに多く出店する高円寺純情商店街。

時代は移り変わり商店街の様相も変化したものの、商店街をあげての名物タイムセール「びっくり市」の継続など、加盟店の協力と団結が今もにぎやかな高円寺純情商店街の原動力だ。

年表

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YouTube動画 高円寺純情商店街を歩く

2021年、ある日の高円寺純情商店街(高円寺銀座商店会協同組合)を動画に収めました。
高円寺駅北口広場から高円寺のランドマークともなっている純情アーチをくぐり、昭和の風情を残す大一市場、環七通り手前の劇場「座・高円寺」まで高円寺純情商店街の加盟店は広がっています。
2階のお店や路地を入ったところのお店など、いつも歩いている方でも新たな発見があるかも知れません。

それにしても、動画の中に度々登場する少年は……もしかしてねじめ正一さんの短編小説「梅雨の子」に登場する正一少年?
にぎやかな商店街に惹かれて昭和30年代からタイムスリップして来たのでしょうか。

正一少年を探しつつ、商店街を気ままに散歩しているような気分でお楽しみください。

※定休日や営業時間外のためシャッターが降りている店舗もございます。

高円寺純情小説プロジェクト
制作:高円寺銀座商店会協同組合(高円寺純情商店街)

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