2007.10.28
記念誌発行によせて頂いた、ねじめ正一氏寄稿

父のなみだ
ねじめ正一

私の父であるねじめ正也が亡くなって四ヶ月程たった。父の人生を振り返るとまず、思い浮かぶのは高円寺の頃、とくに私が十才の頃、昭和三十年代に入った頃のことがいちばん思い出される。父はあまりお酒が強くなかったが、人のたくさん居て、わんさかしている雰囲気が好きでたまらななく、高円寺の裏通りにある小さな飲み屋さんに出かけた。

父は飲んで帰ると、家ではまた寂しくなるのか、もう一度出かける癖があった。昭和30年代の冬のある日、父はいつものように出かけると言ったのであった。昨日中降った雪が膝上まで積もり、店の裏通りはまだ焼け跡の雰囲気が残っていて家もなく雪掻きをする人もほとんどなく積もったままの中を出かけ始めるので母が行き先を聞くと「高島の家にいってくる。どうしても高島に会いたいんだ」と言った。
高島さんという人は父の俳句仲間であり、ライバルであり、のちに父が乾物屋から民芸品屋に転業したときのよき相談相手でもあり、無二の親友でもあった。母が「こんなに遅く家にお邪魔しては迷惑がかかるからやめたほうがいい」と言っても父は耳を傾けずにどうしてもいくと雪道を歩き出すが、父は酔っ払っていてふらふら。さらに雪道が重なり、足元がおぼつかず、少し歩いては転び、少し歩いては転び、私も母親も父の姿をとても見られなかった。
そのうち父は一メートルほどの棒切れをどこからかさがしてきて、その棒切れをつきながら進みはじめた。母親がいくら戻るように言ってもまったく聞かずに裏の小道に沿って踏みきり二つ目、中野方面に谷中の踏み切りがあって、その踏み切りを渡ると、間もなく右側に高島さんの家があった。高島さんの家族の人たちはみなさん優しくて、酔った父を優しく受け入れてくれることは解っていても、こんなに遅い時刻ではそうはいかなかった。ひょっとしたら、もしかしたら父親は母の言うことはダメであっても私の言うことなら聞くのではないかと思って、私は夢中で父親を追いかけた。雪の上についた父の足跡をなぞるように追いかけたが、私も雪にすべって何度も転びながらそれでもなんとか父親のそばまで追いついた。「お父さん帰ろうよ」「お父さん帰ろうよ」「お父さん帰ろうよ」と何回も言う。父親はひょっと立ち止まったので、これで一緒に帰ってくれるのかとほっとした。ところが、父はそこで突然に泣き出したのであった。「正一にこんな格好を見られて俺は悲しい俺は悲しい」と泣きながら叫んだ。子供の私に酔う姿を見られて悲しいのなら最初から見られないように気をつければいいのだが、この矛盾が父そのものであった。
子供のように泣きじゃくる父も気持ちがだんだん落ち着いてきて、やっと家の方向に戻りはじめた。母と私は父をなだめなだめして雪道に足をとられながら家にたどりついた。それにしても父がこんなみっともない姿を私に見られたと言って泣いた姿は今でも忘れられない。大正生まれらしい男の涙かもしれないが、その父の涙はとても男盛りのチャーミングな涙であった。きっとこの涙で母も父にはかなり苦労させられいてもすべて許してしまった気がする。
しかし、考えてみれば男盛りのチャーミングさは私の父だけではなく、商店街のおじさんたちはみんな持っていた。お菓子屋の相模屋さんの顔がシャンソン歌手の高英男に似ていて喧嘩も早かったし、林画材店のおじさんは自分の頑固さに照れていたし、甘味屋久野家のおじさんはふだんはおとなしいけど剣道着をきたとたんに恐いおじさんに変身するし、惣菜のレインボーのおじさんは気が向くと一流コックになるし、パリナのおじさんはカメラマンの篠山紀信のようなもじゃもじゃ頭でファッションを先取りしていたし、カーテン屋の星野のおじさんは仕事とはまったく似合ってない風貌の持ち主だった。さあ、高円寺純情商店街の二代目三代目はあのおじさんたちの男盛りのチャーミングを何処まで越えられてきたのか。

ねじめ正一
1948年6月16日生まれ。民芸店店主。作家。詩人。81年処女詩集「ふ」で詩壇の芥川賞といわれる第31回H氏賞を受賞。89年『高円寺純情商店街』で第101回直木賞を受賞。現在、テレビ、雑誌等で活躍中。父親の祢寝正也さん(98年物故)は高円寺純情商店街で乾物店を経営され(現サンプラザビルの所)、後に民芸品店に業種転換。区画整理を期に高円寺を撤退し、阿佐ヶ谷と吉祥寺で民芸店を営業された

純高円寺銀座商店会協同組合設立40周年記念誌より

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